初代理事長

二宮 芳太郎(故人)
(昭和52年8月8日~昭和61年6月16日)

昭和51年 紺綬褒賞

昭和57年1月 吉田町名誉町民

平成17年8月 宇和島市名誉市民


設立の動機 (昭和53年3月寄稿Ⅰ)

二宮 芳太郎

 本会設立の趣意書に「喜寿の祝いを記念して・・・」と述べましたが、これは何も77歳にして突如育英事業を思い付いたというわけではないので、〝教育〟ということに関しては、私はかねがね人一倍関心の深い方であったと自分でも思っています。

 戦後間もない昭和22年に、日本の教育制度が改革されて現在の六三制に移行し、その2年後には大学の学制も変革され、いわゆる新制大学が誕生したのですが、そのとき旧師範学校も大学に昇格しました。

 この大学昇格を機に、私は付属中学校設置の猛運動をしたことがあります。当時、私は近くの師範学校付属小学校の後援会理事長をしておりましたが、理事としては既に17、8年間にわたって、できる限りの時間を割いてお世話させて戴きました。この間付属中学校の設置はかねての念願であったので、師範学校の学芸大学への昇格はその絶好の機会であると思ったからです。

 建設委員長に選ばれいろいろ困難のことがありましたが、何回となく文部省へ出頭いたしました。最大の難問は土地の問題でした。それも師範学校と再三の交渉の末、その敷地の一隅に校舎を建て、運動場は師範のを共用させていただくことになり、やがて予算の裏付けもとれて、木造バラックながら校舎が建設されるのを見たときは感激したものです。

 このように、私が教育に深い関心を抱いて参りましたのは、自分の生い立ちのせいかも知れません。私自身は小学校しか出ておりませんし、学歴も学問の素養もありません。自分では進学したかったのですが、家庭環境の都合で行けなかったのです。高等小学校を卒業して、その後、夜学に3年間通学いたしました。

 もっとも、私が就学したのは今から70年も前のことで、当時は義務教育は小学6年まででした。高等小学校へさえ進学する人も少なく、まして大学まで行く人は県下でも数えるほどという状態で、今と単純に比較することはできないでしょう。

 現在では、義務教育は中学3年までとなり、高校や大学への進学率も高く、国民生活の水準が全般的に上がって、当時とはまるで状況が違います。しかし、問題がすべて解決されたわけではなく、今日でも向学心がありながら、私と同じようにいろいろの都合で、進学あるいは研修などに困難を感じている若い人がいることも事実で、その芽を摘み取らず何とか大きく育てることが必要です。

 一私人の身では、でき得ることはおのずから限りがあります。それは承知の上で、私は金額の多寡ではない、とにかくそのような若い人を、たとえ幾らかでも援助したいものだと思いました。一本の線香の光に過ぎなくとも、暗いところでは明るく感じることもあろうとの考えが私を決心させ、町長さんを始め有志の方々から激励され勇気付けていただきました。

 わが睦丸はまだ船出したばかりで、研修生も、国内、海外合わせて22名に過ぎませんが、それらの若い人たちからの便りに接するとき、私の心は温まり喜びの思いに満ち溢れます。この事業はこれからが本番です。私としては格調の高い、見識ある育英会にしたいと念願してやみません。


青年に望む (昭和53年3月寄稿Ⅱ)

 若い人たちに対して、誠実とか勤勉などといった、抽象的なことをあれこれ言うつもりはありません。要は、若い人は若い人らしく大いにやれの一言に尽きます。

  〝青年に望む〟というより、多少ニュアンスは違いますが、若い人たちに伝えたいことがあります。

 「太閤記」はどなたも読んだことがあると思いますが、位人臣を窮めた豊臣秀吉も、始めから天下の関白になろうと思っていたわけではないでしょう。否、水吞み百姓のせがれが、最初から関白位を狙っていたと考えるのはむしろ不自然です。

 しかし、織田家に仕えて、草履取りというあまり見栄えのしない職務についたとき、草履取りとなったその瞬間から、秀吉は日本一の草履取りになろうと決心したのです。そして、事実織田信長の最高の草履取りになりました。関白を目標にして関白になったのではなく、それは結果と言えるでしょう。

 ニューヨークにカーネギー・ホールという立派な音楽堂を遺したことでも有名な、アメリカの大富豪カーネギーも、若い頃に街頭で靴磨きをしていたときはアメリカ一番の靴磨きになることを目指していたそうです。後に米財界の大物になったのは、これも結果としてそうなったのでしょう。

 このような話は、とかく成功者の出世物語として、出来過ぎたフィクションであると思われ勝ちですが、私が親戚の一人から直接聞いた次の例は、生々しい体験談であり、作りごとではありません。

 その親戚というのは、私と同年輩でもありとくに親しくしていたのですが、あるとき話題が松下幸之助のことになり、次のような思い出話をしてくれました。

 「私は若いときに、大阪のある自転車屋さんに奉公していたことがあるのだが、たまたま松下幸之助も同じ丁稚仲間として、私と一緒に働いていた。彼はその頃から人とは少々変わったところがあって、例えば〝僕は自転車屋の掃除では日本一になるんだ〟と妙なことを言っては、一生懸命掃除に精を出していたよ。・・・・・云々。」

 松下幸之助と言えば、今では知らぬ人はないでしょう。そして、この話には先に挙げた秀吉やカーネギーの例と共通した点があることにお気付きでしょう。

 普通、学校を卒業して就職すると、その会社の重役や社長になることを目標にして働く人が多いようです。私の場合も例外ではありませんでした。小僧のときは番頭さんを目指し、会社になれば重役になりたいと思いました。しかし、お茶汲みを命じられたときに、〝つまらない仕事をやらされて〟とは考えても〝日本一のお茶汲みになろう〟とは思い至りませんでした。

 どのような仕事でも、たとえそれがどんなにつまらない仕事と思われようとも、目前の自分の仕事に対して日本一を目指す態度・・・このような若き日の松下さんの話を聞いて私はハッとしました。

 大人物と言われる人々には、何か一味違ったところがあるものですが、秀吉、カーネギー、松下幸之助に共通したもの、そこに一味違う「何か」の具体例を読み取れます。

 常に目前の自分の仕事に最高を追い求め、努力を積み重ねて行く、こうした努力はすぐに報いられることはあまりないのですが、積み重ねて行くことにより、長い目で見ればその結果は必ず輝いてくるものなのです。

 明日を信じ、将来に夢を託して・・・それが若者の権利なのですが・・・ひとつ大いにやって下さい。


育英の心 (昭和55年3月寄稿Ⅱ)

 郷党の皆さん、お元気に活躍されていることと思います。

 早いもので睦育英会が発足してから三周年を迎えることができましたことを私は非常にうれしく思っています。

 その間、海外へは、オーストラリアをはじめ、アメリカ、ドイツ、フランスへと七名の青年を派遣しましたが、研修生自信、生涯国の実情をつぶさに見聞し又は同年代の人達と交流の機会に恵まれ、大変よい勉強になったのではないかと思います。また国内研修においては熊本をはじめ、広島、長野方面へと述べ133人の研修生が出向き、現地研修を積まれたことは楽しい思い出となるでしょう。十分生活に生かしてください。

 一方、奨学育英事業につきましても、現在7名の方に奨学資金を貸し付けており、いづれも一生懸命勉学に励んでおられることと思います。

 このように育英会の事業が順調に進んでいますことは、まことに喜ばしく、西山町長さんはじめ役員諸氏のそのご努力に対し、深く感謝を申し上げる次第であります。

 ご承知のように今日の我が国は激動する国際社会の中で、繁栄発展を求めなければならない時代に入っています。とりわけ次代を担う青年諸君の研磨と雄飛を私は大いに期待をしているのであります。その意味から諸君の先輩諸賢は大いになる夢と希望をもって努力されたのであります。・・・その熱い血潮はふるさと吉田の歴史を築き、今なお延々として受け継がれております。

 これからの吉田町に活力を投入するのは、青年諸君の双肩にかかっております。

 育英事業も年輪を重ねることによって、より多くの青少年に研修の機会を与えることができ、やがては立派な後継者として活躍して頂けるものと楽しみにしております。

 折にふれ、研修生からの便りをいただいておりますが、私は非常にうれしく心強い感を覚えるのであります。これからも本事業の発展に各位のご協力と青年諸君の積極的な参加をお願いする次第であります。

 ご多幸をお祈りします。


二宮芳太郎氏胸像

宇和島市立簡野道明記念吉田町図書館写真)
1階ロビーに保管